2009
11/29

川嶋英雄(当時27歳)の証言

事件の年 : 1995年

脱会説得者(所属) :
松永堡智(日本同盟基督教団・新津福音キリスト会牧師)

事件の概要と経過 :
 『当日の夕方、家族で食事を取っていましたが、ふと隣の部屋から顔が覗き、そちらを見ると親戚らしき人が数名(10名前後であったと思います)来ており、その場の緊張した雰囲気に、私は今まさに拉致・監禁が行われようとしていることを悟り愕然としました。心臓が止まる思い、とはこういうものか、ということを実感しました。・・・ 数時間後、車を降りて(もちろん場所はわからない)、もう一度「場所も、マンション名も教えてもらえないのか」 と聞くと、「大声を上げると、タオルを口につっこむよ」と厳しい口調で脅されました。身内からそんなことを言われるとは、とても信じられないことであり、大変なショックを受けました。・・・(本文より抜粋)』

川嶋さんは、 富山県の実家に戻ったところを、両親ら約10人に拉致され、新潟県新津市(当時)のマンションに監禁された。「その目はマインドコントロールされている目だ」と、狂人扱いされながら、脱会説得に訪れる松永牧師から批判を聞かされるも、それは結局、牧師自身の宗教的エゴを満たすためのものであることが牧師との議論の中で次第に明らかになっていく。脱出のための偽装脱会、踏み絵、偽装脱会の発覚による延長戦と攻防が続き、4カ月後にようやく解放される。
川嶋さんは、自身の拉致監禁体験を振り返り「精神的レイプ」と言い切る。また、解放後も発狂恐怖、悪夢などの後遺症に悩まされ、祖母からは監禁作業のために約500万を牧師にだまし取られたことを聞かされる。『家族に対しては、なぜこんな、行きずりの赤の他人の言葉を信用し、家族である私自身を信じてくれなかったのか。この思いが残ります。・・・なぜ私の心に傷が残っているのか、それは他ならぬ家族が、ギリギリの場所で私を信じてくれず、赤の他人を頼ったからである。このことに尽きます。・・・(本文より抜粋)』
川嶋さんは拉致監禁の結果バラバラにされた家族との関係回復の道を今も苦しみながら模索し続けている。著書に『拉致監禁百二十日間』(J-CARP広報部)がある。

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1.統一教会入信から監禁以前

 私は1995年6月より約4カ月、新潟にいるキリスト教の松永牧師と脱会者グループが深く関与する組織的な監禁を受けました。
 以下、私が切に訴えたいのは、この拉致監禁・強制改宗が家族ぐるみで行われることによって、他でもない実の家族に裏切られたという事実によって、本人の心の中、そしてその後の家族関係に大きな傷、歪みが残り、時として修復不可能な状態になってしまうということです。

 私は、1990年12月、大学在学中に統一教会の教えを聞き、入信しました。
 監禁前の家庭についてですが、父が特に統一教会とは相性の悪い共産党、そして母はこれまた相性の悪いプロテスタント系のキリスト教に属しており、監禁の可能性がかなりあるため、帰省なども自主的に気を付けるようにしていましたが、監禁直前までは、私も「まさか自分の家族がそんなことはしないだろう」という思いがあり、家族も基本 的には信仰は個人の問題である、というスタンスをとってくれているようだったので、私も安心して来た、その矢先に監禁されたのです。

※拉致監禁の大まかな経緯

  6月10日  帰省、新潟へ監禁(新津、ロイヤルコープ505号室)
  6月20日頃 脱会者と初めて会う
  7月上旬   反対派の「切り札」を検証、偽装脱会を決意
  7月10日~ 本格的に牧師の理論を検証
  7月23日  「脱会する意志」を家族に納得させ、ビデオなどをみるようになる。
  8月14日  脱会書を書く
  8月18日  監禁後はじめて外に出て外食を食べる(約70日ぶりに外出)
  8月19日  床屋へ父と行く。腕時計を置いておく(ウラに統一教会所属先の電話番号を書いておく)。
  8月20日  夕方、腕時計が見つかり、偽装脱会らしいと発覚。新しいマンションへ移動。(亀田本町1-5-35、アルベール本町B703、岡本民雄)
  9月15日頃 母が実家へ帰りたがり、いったん家族間(父・母・私・妹)で、監禁をやめると決定したが、翌日牧師の説得により、帰らずに最後まで説得活動を行う、と意見を翻す。
  9月22日  妹が大学へ帰り、三人で外へ散歩に行く(約1ヶ月ぶりに外出)
  9月29日  牧師と父が話し合った結果、十月十日頃に実家に帰ることに決定。
 10月 6日  富山に帰る。
 10月14日  統一教会側に連絡し、戻る。

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2.監禁開始

◯マンションに移送(95年6月10日)

 監禁開始は6月10日、富山県への帰省時でした。今にして思えば、その前回帰省したのは正月でしたが、その時、「父親が退職して第二の人生を出発するから、家族全員でパーティをやるので、6月10日を開けておいてほしい」と言われ、その後電話で親と話したときも、「6月10日は大丈夫か」と何度も念を押されるなど、明らかに計画的な犯罪だったことが分かります。

 当日の夕方、家族で食事を取っていましたが、ふと隣の部屋から顔が覗き、そちらを見ると親戚らしき人が数名(10名前後であったと思います)来ており、その場の緊張した雰囲気に、私は今まさに拉致・監禁が行われようとしていることを悟り愕然としました。心臓が止まる思い、とはこういうものか、ということを実感しました。

 そこで「こんな真似はやめてほしい」「いつまでか、期限を切って話すべきだ」「せめて事情を所属先に連絡させてほしい」「場所はどこか」「誰かに相談したのか」「今後の僕の人生に対してどう責任をとるつもりなのか」「いまここで無事に帰してくれるのなら、ここであったことはなかったことにする」など主張したところ、見知らぬ人(既成キリスト教会所属の監視役と思われる)が「彼は時間稼ぎをしていますね」と言って、周囲に指示を出し、むりやり車に連れ込まれて監禁場所へ移送されました。

 エレベーターへ乗り込む時、まず私を最初に乗せてから全員(10人前後)が乗り込む、私を車に乗せてからさらに路影に潜んでいた数名がトランシーバーをもって乗り込んでくる(私が逃走すると想定して待ち伏せていたらしい)など、実に計画的なものであり、誰かの教唆なしにはできないことを感じさせられました。

 移送中、「トイレに行きたい」と言うと、逃げだそうとするからダメだと言われました。「権利がある」と言うと、「携帯トイレがある」と言ってゴム状の携帯トイレを渡され、屈辱に身をふるわせながら、車の中で用を足しました。不思議なことにこの間、自分が何を感じているのか、自分でも良く分からないような、麻痺したような感覚に陥っており、自分がブルブル震えているのを感じて、「ああそうか、自分はあまりの屈辱に、怒っているんだな」とようやく気づきました。

 数時間後、車を降りて(もちろん場所はわからない)、もう一度「場所も、マンション名も教えてもらえないのか」 と聞くと、「大声を上げると、タオルを口につっこむよ」と厳しい口調で脅されました。身内からそんなことを言われるとは、とても信じられないことであり、大変なショックを受けました。

◯最初の一週間(6月10日~16日頃)

 最初に監禁された場所は新潟、新津市のロイヤルコープ505号室でした。  家族は、最初のうちは「これは家族がやったことであり、牧師とは一切関係ない。まだ牧師に話をしたこともない」 という風に私に言っていましたが、実際はすべて牧師のレクチャー通りであり、場所も、牧師が何ヶ所もキープしている内の一つであり、過去何度も監禁のため使いまわされてきたマンションであること、などを後で(9月頃)話してきました。

 マンションの中では四六時中、一挙手一投足にまで気を配られ、窓の所へ行こうとすると「開けるな」と前に立ちふさがられ、「なぜだ」と聞くと、「お前が狂って飛び出すからだ」と言われました。

台所の開き戸にも自転車用のチェーンキーがかけてあり、「なぜだ」と聞くと「お前が人を刺すからだ」と言われました。

食器も全てプラスチックで出され、「なぜだ」と聞くと、「お前が投げつけるからだ」と言われました。

マンションの外扉までは、台所の扉を通らなければいけない作りになっており、そこは普段監視されていました。

夜中にこっそり外扉まで行ってチェックしたところ、押し売り防止に付いているチェーンをかけた状態でたわめて南京錠で短く止め、鍵がなければ開かない状態でした。

また窓も同様にこっそり確認したところ、特殊な鍵をとりつけて、障子戸とカー テンが締め切ってありました。

最初の数日間は、家族以外に父親の知人と名乗る(そのほとんどに私は面識がありませんでした)共産党関係の人たちが交代で二、三人ずつ泊まり込み、議論を強要されました。

そして家族や親戚、親の知人に「統一原理を語ってみろ」「統一教会の活動について弁護してみろ」と 言われ、私が語ろうとすると親族・家族全員によって話を寸断されて消耗させられました。

監禁されていることに対して怒りの思いをぶつけると「その目はマインドコントロールされた目だ」と言われ、精神的に消耗して黙っていると「きちんと話をしないのはマインドコントロールされているからだ」と言われるなど、まるっきり狂人扱いされ、基本的なコミュニケーションができない状態でした。

私は「活動や組織などはいつ抜けても良いが、どうして教えまで奪おうとするのか」と訴えましたが、周囲は全く聞き入れようとはしませんでした。

この一週間は、あまりの精神的重圧でほとんど一睡もできず、食べられるものもお粥ぐらいになってしまいました。

そのことを家族に伝えましたが、「統一教会員はこういう環境になると断食をすると聞いている」という思いから、「この子が断食を始めた!」と思い込んだようで逆に無理に食べさせようとしてくるばかりで、数日かけてようやくお粥を出してもらえました。

またこの頃、父親に「信仰は、永遠の魂の問題だ。永遠の問題にどう責任を持てるのか?」と聞いたところ「永遠の魂のキラメキなど、私は分からん」と不思議な答えが返ってきました。

このように、簡単なコミュニケーションすら出来ないことで、心が悲しみで満たされた感じがしました。  その中で「私は専門の知識がないから、専門のキリスト教の知識をもった牧師に会ってみよう」と言いつづけられ、私は「どうして第三者を呼ぶ必要があるのか」と抗議しましたが、このような状況下では家族自身が私と客観的な話をすることができない、と判断し、諦めと悲しみに満たされた思いで「脱会者に会う」と答えました。

すると次の日に、元統一教会の信仰を持っていた二人の脱会者がやってきました。  私を脱会者に会わせることで、家族はホッとした様子でしたが、果たしてその真の意味に気づいていたのでしょうか。私にとって、彼らがやってきた日は、家族間の信頼関係が決定的に破綻した日でした。

親子で話し合いたかったのに、家族は私を理解せず拒否し、第三者に頼りました。このことは私にとって、深い悲しみです。

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3.過酷な脱会説得現場

◯本格的な説得作業開始(6月20日頃)

監禁中、説得にやってきた統一教会脱会者は、総勢30人前後だったと思いますが、詳しくは 覚えていません。

彼らは全て、自分が監禁(「保護」という表現を使いたがる)されて脱会したと説明していました。

この時期は、脱会者が、監禁された時のさまざまな話をし、「家族は心配しているのだから、応えてあげるべきだ」 「この環境を与えたのも神なのだから、逃げようなどと考えず、話を聞くべきだ」「全部聞いて、それでも信仰を保とうというなら保てばよい」などと言ってきました。

監禁による脱会作業には、ここ数年は短くて2ヵ月、大抵は3~4ヵ月かかるとのことでした。

このとき脱会者の一人、F君は、新潟で統一教会に対する反対活動に携り、このような説得作業に加わっていたことを認め、「統一教会内 にもう一人霊の子(自分が伝道した人)が残っているが、監禁は本人の心に傷が残るから、なるべくそうならないように本人の家族と連絡をとってなんとかやめさせるつもりだ」と話していました。

またF君は「統一教会側では、なにか恐ろしい監禁牧師というのがいて、無理矢理信仰を剥奪するように教えているが、全然そんなことはなく、人格者だ。統一教会内部の情報を強制的に聞き出したりすることもなくて、みんな自発的に情報を提供している」と言っていましたが、後でこの言葉は裏切られました。

◯ウワサなどで信仰を揺さぶる(6月25日頃)

 再度「牧師に会ってもよい」という言葉を無理矢理言わせられた次の日、6月25日頃に、新津福音キリスト教会の松永牧師がマンションに やってきました。

 松永牧師は「統一教会がいかに悪い団体であるか、そこに所属しているだけで犯罪なのだ」と責めたて、そして統一教会に関する二・三の批判資料を「読んでみなさい」と言って渡してきました。

 監禁時に財布・筆記用具などは全て取り上げられましたが、このころにようやく逃げる意志がないことを確認されてから、筆記具だけは返してもらいました。この筆記具を使って、7月1日にこっそり、紙に「監禁・助けて」と統一教会側の電話番号を書いた紙を窓に(内側から外に見えるように)貼りましたが、気付かれており、すぐはがされました。

◯「マインドコントロール理論」をぶつけてくる(6月末~7月10日頃)

 6月末、2回目に松永牧師がやって来、「以前に渡した内容は、全部本当だ」と声高に主張し、ここで「マインド コントロール理論」を説明しだしました。

「統一教会は、梯子をかけて原理の世界に追い込んで、あとは降りられないように梯子を下ろしてしまう」「偏った情報で信じたのだから、正しい情報を聞く必要がある」などと言いました。

私見を言わせてもらえば、閉鎖空間に押し込め、偏った情報ばかりを与えて、おどろおどろしいイメージを持たせるのは、まさに監禁グループの方であると思います。

そもそもカウンセリングや精神科医の専門資格のない人間が、家族を巻き込んで監禁させ、本人を異常な心理状態に追い込んで、学術的にも根拠のない似非心理学を得々と語る姿は、とても正気の沙汰とは思えません。

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4.偽装脱会を試みる

◯「脱会」が揺るがないよう固める(7月10日~25日頃)

 次の2週間ほどは、ビデオを併用しながら、本格的に原理に対する批判をレポートにまとめ、理論を詰めていきました。

 なぜかテレビとビデオデッキがマンションのなかにしまってあることを牧師が知っている、原理の詳しい内容を家族が知っている、など不自然な点があり、問いただしていくと、家族が監禁前に牧師の講習会に参加しており、マンションも牧師が監禁のために十数箇所も確保している場所のうちの一つだったことが分かりました。

 この間、説得側が「統一原理よりも優れている」と言う、キリスト教の教えにも個人的には興味がありました。

しかし批判を聞いて行くうちに、松永牧師自身の発想の貧困さ、理論の稚拙さ、前後矛盾した無節操な批判などに失望し、次第に嫌気がさすようになりました。

 私が話した限りでは、「聖書は絶対である」と言いつつ聖書に自分に都合の良い解釈ばかり加え、そのことを指摘 すると「聖書には様々な解釈が可能である」と言う、統一原理とキリスト教との原罪観の違いも知らない。

話の途中でいきなり感情的になって論旨を無視したり話を中断するなど、真理を求める姿勢とはほど遠いものでした。

 また牧師の、理路整然というよりは感情的な、「真理であってたまるものか」「メシヤであってたまるものか」「聖書に勝るみ言があるというなら、見せてみろ」といった言動、前後の脈絡なく批判を繰り返す姿に対して、私はかえって、この人物が宗教エゴを刺激されて、防衛本能から攻撃的になっている視野の狭い人種であり、交流しても得るところがない人間だと感じざるを得ませんでした。

そして牧師の批判は、結局、牧師自身の宗教的エゴを満たすためのものであり、このような話を聞いていても建設的要素に乏しい、と判断しました。

◯家族に「脱会」の旨を告げる(7月23日)

 7月23日に、元統一教会員の3人(女性1人男性2人)がやってきました。女性の方から「まず親がこれまでのこと(監禁以前の親子の問題と、監禁そのものの両方につい て)を謝らなければ、本人は意地でも教会をやめませんよ」という旨の言葉が出たので、これを機会として、脱会者が帰った後「脱会する」と父に告げました。

 その頃家族は、脱会者たちに水を向けられなければ私の言葉を理解できないぐらい、困惑し、また監禁牧師・脱会者達に頼っており、「脱会」を告げるにもこうした機会を待たなければならない状態でした。

まさにこの監禁劇自体、家族がやったのではなく、監禁牧師によってお膳立てされたものであるという感を強く持ちました。

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5.踏み絵

◯脱会の確認(7月末~8月15日頃)

 その後、具体的に脱会書を書き、脱会者といろいろな話をする中で脱会の意志を確認されました。脱会書は牧師と家族が検閲して投函されました。

 この頃、松永牧師が、反対派牧師の集まりに参加するため東京に行き、私の元相対者(合同結婚式に参加した相手)であるYさんと偶然会って、話をしてきたことを明らかにしました。

彼女は本人の元霊の親(統一教会に伝道した人物)と一緒に、東京の脱会者の会に所属しているとのことでした。

私の元相対者についてですが、92年夏に行われた三万双の合同結婚式に共に参加しました。

しかし約一年後、実家に帰省したきり消息を立ち、あちこち探し回りましたが、Yさんの家族全員の消息が不明になっており、結局行き先は分かりませんでした。

それ以来、彼女の親戚を訪ねたり実家に手紙を送ったりしましたが、93年春に「統一教会を脱会する。祝福は解消する」という旨の手紙が届いただけでした。

私としては、それがどの程度本人の意志によるものか、また脱会の理由は何なのかなど確かめようがなく、宙ぶらりんな気持ちで待っている状態でした。

 8月18日、ようやく牧師から、脱会者を通して「外で夕食をしてもいい」と指示が伝えられ、約70日ぶりに家族と脱会者たち数人と外に出て、 外食をしました。

 この時一緒に外食した脱会者は、監禁中の話によれば、統一教会を批判する内容のテレビ番組に参加したそうです。

個人的にはいい人たちだと思いますが、公共の場に出つつ、裏でこういった犯罪(拉致監禁行為)に荷担したという社会的責任は問われるべきであると思いますので、付け加えておきます。

 8月19日、父と共に外出して床屋に行きました。私はかねてから、二回目の外出の時に置き文をして統一教会側に連絡をとるということを決めており(一回目では周囲の監視がまだ強く逃げ切れないと判断したため)、時計のウラにシールを貼って所属先の電話番号を書いておき、トイレの中に忘れた風を装って置いておきました。

 すでに7月10日頃に、自分の信仰がこの人たちによっては奪えないという手応えを持っていたので、私個人としてはマンションから逃げる必要はなく、ただ監禁が終わるのを待てばよい状態でした。

しかし彼らが次の踏み絵として統一教会の他のメンバーの名前などを聞いてきたため、いまそういった情報を漏らすと、その家族に連絡が行き、さらにそのメンバーが監禁される危険がある、と思い、すぐにマンションから出なければならないと考えたのです。

しかしその時体力が相当消耗しており、走っても追いつかれて連れ戻される可能性が大きいため、この忘れ物作戦を実行したわけです。

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6.「延長戦」

◯二度目のマンションへ(8月20日)

 8月20日、この日のことは特に強烈な印象をもって覚えています。

 この日、松永牧師はジャーナリストとして「ザ・ワイド」に出演している有田芳生氏を呼んで、講演会をおこないました(監禁中に松永氏は何度か「有田氏とは友人で、講演のため新潟に呼ぶつもりだ」と言っていましたので、この表現は正しいと思います)。

事前に、松永氏から私に対して脱会者を通して、「講演に参加するかどうか」という問い合わせがありましたが、私は、もしかしたら今日あたり統一教会側から誰かが私を助けに来てくれるのではないか、と思っていたので、断りました。

 なお、このしばらく後、『週刊文春』に有田氏の統一教会を批判する記事(クレジット献金についての内容)が掲載されましたが、ここで証言を載せている、「A子さん」が、私の所へ脱会説得に来ていたNさんであることを、監禁中に松永牧師が教えてきました。

彼女は1995年1月から4月まで、松永牧師による説得を受け、脱会したそうですが、この8月の講演会のついでに有田氏がNさんを取材し、文春に掲載したわけです。

 この日の午後、父親が一人で外を歩いている時、昨日行った床屋の主人が父親に偶然気づき、その場で私の置いてきた腕時計を父に返しました。

この事から私が偽装脱会らしい、ということが分かり、すでに床屋の主人は私の所属先にも電話を入れていたため、その日のうちに二度目のマンションに連れて行かれ、ここからさらに延長戦が始まりました。

すぐに場所が用意できなかったためか、二度目のマンションは、Nさんが説得を受けた、まさに同じ場所でした。

マンションの名義は「岡本民雄」となっていました。

 移動には脱会者の運転する車を使いましたが、二度目のマンションの駐車場に着いて、降りようとしたとき、普段説得に来ていたメンバーが数名、同時にヌッと物影から立ち上がり、組織的なものをあからさまに感じさせられてゾッとしました。

私が逃げ出さないように、そうやって威嚇するように指示を受けていたのだろう、と思いました。

 ここから、さらにひととおりいろんな批判を聞かされた上で、統一教会に戻りたいというより、いつまでも外に出そうとしない周囲の人間が信用できないのだ、というストーリーで、徐々に周囲に納得させていきました。

最後は家族も牧師もうんざりした様子で、はやく終わったことにしたいという思いが見て取れました。

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7.「延長戦」②

 この期間中に松永牧師に「統一教会も信用できないが、それ以上にあなたが信用できない」と言うと、「それでは何を言っても信用してもらえない」と気弱な姿勢を見せていました。

しかし、私に言わせれば、様々な悪い情報について、きちんと裏をとってあるのであれば、人間を信用するしないに関わらず、その動かぬ証拠を一つひとつ提示していけばいいのであって、それができないということは、客観的に根拠を示せない情報ばかり流していることになります。

 この時期に監禁プロジェクトチームがだんだん減って行き、家族が父・母・私だけになった時点で、監禁はほぼおわりという雰囲気になりました。

 家族と脱会者からは「なぜ向こうに連絡しようとしたのか。周囲の真心を踏みにじる気か」と詰問され、私が「僕がいつ違法行為を行ったというのか。手紙にどんな文面を入れようが、誰に連絡しようが、個人の自由ではないか」と言うと、ハッとした雰囲気になり、誰も何も答えられませんでした。

 また、私が監禁以前に、元相対者であるYさんに対して心配して、何度も実家に行ったり連絡してくれるように手紙を書き送ったことを話して、「統一教会内ではどれだけ心配しているか知っているのか。やめるならやめるでなぜ連絡をきちんと取らないのか」と聞くと、「ここでやっていることについて詳しく知られると今後の『救済活動』(監禁説得)に支障を来すから」という返事が脱会者から返ってきました。

個人の気持ちを無視して組織論を優先する、監禁作業のカルト性を見せられた気がしました。

 このころ、元統一教会員のH君に私が「いまでも元相対者であるYさんに対しては情が行く」という話をすると、「それはダメだ。統一教会の中での間違った情関係は切るべきだ」と主張しました。

そこで「では、なぜ反対活動をやるのか」と水を向けると「仲間を救いたいからだ」と答えるので、「情関係を切ると言っているのに、仲間と言うのは矛盾している」と言うと、何も答えられない様子でした。

 ここで私見ですが、監禁説得を受けた者が脱会する理由は、一面には単純に統一教会の悪い噂、教理批判、あるいは親族の説得などによって脱会した、いわば健全な脱会ケースもあります。

しかし、最も身近な家族から裏切られ、異様な閉鎖空間に閉じ込められ、人格否定の言葉を浴びせ続けられることによって、信仰以前の人格的な土台そのものを壊され、いわば発狂した副産物として信仰を失うケースも、厳然としてあります。

私の知っている範囲でも、監禁後に人間不信や幼児退行になった例、二重人格になってしまった例などが数例あります。

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8.「青春返せ」裁判の原告が登場

◯「青春返せ」裁判の原告が登場

 たしか8月末だったと思いますが、土曜日の夜に、Kさんという女性がやってきました。大変気性の激しい人で、「私は青春返せやっているけれど、仲間を救いたいと思っているのよ。気が狂ったメンバーだって知っているんだから」という風に言っていました。

 彼女自身もマンションに拘束されて説得を受けたそうで、「この環境も神が与えたものと思って、家族を説得して 堂々と出て行こうと思った」「マンションにいる間、どうして自分がこんな目に会うのか理解できず、聖書の『ヨブ記』を繰り返し読んでいた」と言っていました。

 私に対して「あなたの元相対者は、完全に離れているわよ」などと言っていたことから、各地のキリスト教牧師による監禁・脱会活動に関わり合っている人物であることが分かります(松永牧師の話によれば、私の元相対者であるYさん は東京の脱会者グループに属しているので、Yさんと面識があるということは明らかに複数の反対運動に関わっています)。

 また、本人は以前祝福を受けており、祝福の相手だったHさんという人の親のところに行って、監禁をするよう説得したが、断わられた、とも言っており、「監禁をしないのは親ではない」といった意味のことを言っていました。

 監禁作業には以前から深く関わっているようで、当時松永牧師の事務を手伝っていた脱会者Jさんは「Kさんが私の所へ説得しに来た時は『あなたを見ていると、全然真剣になっていないじゃない』と強く言われた」と言っていました。

また、私が説得を受けた時も同じくKさんから「あなたを見ていると、全然真剣になっていないじゃない」と言われました。

私の知り合いで統一教会信者のUさんという女性がいますが、彼女も松永牧師によって監禁されたことがあり、良く似た女性(名前は覚えていないそうです)からやはり同じ言葉を言われたそうです。

 監禁側は、異常な環境下で疲れ果てている本人に、さらにこういった激しい台詞をぶつけて自分たちのペースに巻き込み、監禁専業者が指導するドグマチックな拉致監禁・強制改宗の本質から目をそらせて、無理矢理、家族の話し合いだということに問題をすり替えてしまうわけです。

 この頃、松永牧師が私に対して、まだ統一教会に対して未練を持っている、統一教会に荷担するのは悪である、といった非難をした後、「献金額は?」「霊の親は?」「霊の子は?」「その連絡先は?」など統一教会側の情報を険しい口調で問いつめ、ノートに書きとめはじめました。

「最初にFさん(脱会者の一人)が言っていたことと違うじゃないですか」と聞き返すと、急になだめるような口調になり、「それは彼の個人的な見解だ」「君は何か誤解をしているよ。

我々は頼まれて来ただけで、言ったことに責任はとらない。君の自由意志で言いたいと思った情報を言うだけだよ」などと言って、ごまかしてきました。

また、母が家に帰りたがり、家族が話し合って、一旦監禁を解くことになりました。しかし、父が松永牧師にその旨を報告しに行ったところ「せっかくここまでやったのに、いままでの苦労が無駄になってしまう」と牧師の説得を受け、結局監禁を続行することになり、申し訳なさそうに私に伝えてきました。

「そんな意味のない家族会議なんて、そもそもやらなければいいじゃないか」と私が答えると、返す言葉がない様子でした。

 9月21日に、妹がそれまで講義を休んでいた大学の方へ戻り、22日に父、母、私の三人で外に散歩に行きました。8月20日以来、約1カ月ぶりの外出でした。

それから数日は散歩をしたりしなかったり、という日が続きました。この期間に逃げようと思えば逃げられたのですが、すでに脱会プログラムは終わっていて、統一教会についての様々な情報も漏らす必要はない、という約束があったので、とくに逃げる理由がなくなり、また体力的にも相当衰えていたので、後は周囲が「もうやめたい」と思うまで忍耐して待つことにしました。

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9.統一教会に戻る

◯統一教会側に連絡、戻る(10月14日)

 10月になって、母が「この環境にはもう我慢できない」と言い張ったため、監禁を終了することになりました。

10月6日、荷物をまとめた後、父と母と私の三人で新津福音キリスト教会に挨拶しに行きました。
私が監禁されていたマンションはこの新津福音キリスト教会が管理しており、カギはこの教会から借りていたものなので返却しないといけないわけです。

脱会者のJさんは、平然とカギを受け取って、教会事務室の壁の所定の位置らしき場所に戻していました。

 監禁が終わってから一週間ほど自宅にいた後、統一教会側に連絡して戻りました。自宅にしばらくいたのは、私が「逃げた」と言わせないため、という理由があります。

脱会者グループは「統一教会の人間に自分の気持ちは理解できない」と言いますが、私は結果的に彼らの言い分を4ヵ月にわたって聞いたことになります。

松永氏の主張も一通りは聞いたし、彼らがマンションへ面会に来たときも、一度たりとも面会に応じなかったことはありませんし、その間基本的に会話が成立しないということは一度もなかったはずです。

私が監禁プログラムを全て消化して、それでも信仰を失わなかった、という事実により、脱会者達が何かを感じてもらえば、と思います。

統一教会側に戻るとき、やはり監禁現場で植え付けられたおどろおどろしいイメージが頭に残り、相当勇気が入りました。

しかし帰ってきて改めて調べてみると、監禁現場では様々な情報操作を行っていたことを確認できました。

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10.500万を牧師に騙しとられた

 監禁現場で家族から監精神異常者扱いされ、真綿で締め付けるような扱いを受けることによる精神的な苦痛・屈辱は大変なものでした。

 「統一教会をやめた人間は、極端な依存症になるため、社会復帰のためリハビリが必要である」という意見がS・ハッサン氏などからあり、反対派牧師や脱会者もそのことをマインドコントロール理論の根拠の一つとしています。

しかし、実際は先に書いたように、「マインドコントロール」理論や強烈な精神的負担をぶつけ、本人のそれまでの成長を全てぶちこわして強引に退行現象を行わせ、人間不信・疑心暗鬼に陥らせた結果、統一教会にも帰れなくしてしまうのだと言えます。

もともとその本人が持っていた、教理を受け入れる上での土台となっていたものまで根こそぎなくしてしまうため、極端な依存症になってしまうのです。これは非常に危険な行為です。

 そもそも信仰者にとって、神との出会いは何よりも大切でありパーソナルな内容であるはずです。

それを無理矢理外に吐き出させられ、悪意ある批評をぶつけられる。これは人前で無理矢理服を脱がされ、裸の姿を揶揄されるのと同じことではないでしょうか。これは「精神的レイプ」と言うのがふさわしいと思います。

 数ヶ月間、ずっと誰かに監視されつづけ、悪意のある議論をぶつけ続けられるということが、どれほど精神的苦痛であるか。

その間毎日、寝るときに「今日もまだ信仰が奪われてはいない……」と確かめ、自分が統一教会の教理を失ったら、永遠の魂も失ってしまうのだ、と思い、何とも言えない気持ちになる、そんなことが繰り返されたのです。

 帰ってきて数ヶ月は、内面を見つめようとするだけで「気が狂うのではないか」という深刻な思いにとらわれ、不安定な状態が続きました。

他人が怖い、周囲の言動が信じられず相手の言葉の裏をいちいち勘ぐってしまう、といった人間不信も根付いてしまい、克服するのに時間がかかりました。

また、誰かが隣で寝ていると気になって、一人でないと寝られない、寝ていても追いかけられる夢、責めたてられる夢などの悪夢にうなされる、寝言で「ずっと外に出してもらえないのか!」と呻いて自分の声で目が覚める、などの様々な後遺症にも苦しみました。

私はすでに監禁から10年以上経ちますが、最近引越しをして、子供が小さいために二階の窓から落ちないように工夫する必要が出てきました。ネットで探してみて、10数年前にお世話になった、カギつきの窓止め「ウインドロックモンター」を見て、これを自分の家の窓に付けるのかと想像すると、何とも言えない嫌悪感がまたこみ上げてきました。

 私は祖母とはすでに関係を回復し、普通にひ孫を連れて帰省したりしていますが、父・母については、帰省の前に手紙を送って日時を知らせたり待ち合わせ場所を知らせたりしていますが、未だに会ってはくれません。
正直、10数年でハガキ一通すら来ません。私の中では、監禁=家庭破壊はまだ終わっていません。

私は祖母からは、監禁の2年前から牧師のもとに通ってレクチャーを受けていたこと、監禁作業のために約500万を牧師に騙しとられた事も聞いています。

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11.最後に

 監禁中に母が話してきましたが、もともと家族が反対派につながったのは、母がキリスト教の牧師に全く別のことで人生相談をしていたところ、私が統一教会の信仰を持っていることに触れたとたん、牧師から「あなたは何も分かっていない」と強硬な説得を受け、松永牧師を紹介されたことによります。

家族が松永牧師の勉強会に通っている際、父は「どうして監禁なんてしないといけないんだ」と立って質問しましたが、別の父兄に「あなたは何も分かっていない」と強硬な説得を受け、監禁を決意するようになったとのことでした。

 3年ほど前、ジャーナリストの米本氏が拉致監禁の問題を『月刊現代』にスッパ抜いた直後、「松濤本部(統一教会の本部のこと)の杉山(杉本? ハッキリしない発音で聞き取れませんでした)」と名乗る人物が、公衆電話から私の所属先に電話をかけてきました。

おどおどした聞き取りづらい声で、「川嶋さん、米本氏の取材を受けましたか」と聞かれたので、「どうしてですか、そちらの松濤本部の○○さんと一緒に来られたじゃないですか」と答えましたが、どうもやり取りの仕方が変だったのと、ちょっと甲高い口ごもるような口調から、これは松永牧師ではないか、と気づきました。

しかし確認する間もなく1分弱で慌てて切られてしまいました。

 私にとって、監禁牧師が私と私の家族にやった事と言えば、自己中心的なカルト価値観を押しつけ、数百万のお金をだまし取り、家族の間に決定的な不信のタネを撒き、バラバラにし、そして、あまりにお粗末なアフターフォロー。これだけです。

 正直、この牧師は、今の私の人生に取って何の意味も持たず、何の感情もわきません。

監禁中に勝手な事を言って去っていった、ただの他人です。

ただ、家族に対しては、なぜこんな、行きずりの赤の他人の言葉を信用し、家族である私自身を信じてくれなかったのか。

この思いが残ります。
やり場のない憤り、何とも形容しがたい苦しさを、ずっと抱えています。

今でもたまに監禁の夢は見ますが、一度も牧師が登場した事はなく、登場するのはいつも家族や兄弟です。

なぜ私の心に傷が残っているのか、それは他ならぬ家族が、ギリギリの場所で私を信じてくれず、赤の他人を頼ったからである。このことに尽きます。

 私は今も機会あるごとに家族に謝罪を求めています。それは、私を信じてほしいからであり、家族として交流してほしいからです。

 私は監禁場所で家族に土下座して「こんなことはやめてほしい。あとで大変な事になる」と訴えました。それは本心からの訴えであり、それを無視して監禁が続けられました。

その結果、実際に家族はバラバラになりました。今度は親が、兄弟が、土下座しなければなりません。そうしなければ本当の家族としての関係に戻ることができないからです。

 子育てしながら、仕事しながら、今もずっと家族の連絡を待ち続けています。

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